学校日記

備中高松城の戦い

公開日
2013/09/06
更新日
2013/09/06

校長室から

昨日、ヒロシシリーズで毛利の高松城の話を出しましたが、歴史が大好きな生徒諸君にとって、ここはおもろいところです。
 時は1582年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は信長の命令を受け、3万もの兵を引きつれ高松城に攻め入ります。この高松城は、備中(今の岡山)における毛利氏の最前線であり、清水宗治(むねはる)が守っていました。しかし、高松城はまわりを沼や堀で囲まれており、攻め込むには細い道を通る他ないのです。これでは、大軍で攻め立てるのは難しかったのです。
 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、得意の兵糧攻めも考えましたが、毛利本隊が援軍として背後から攻めてくるとも限らない状況でした。ならばと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は部下のとんでもない案を採用します。
 城ごと水攻めにしてしまおうというのです。
 羽柴秀吉は、近くの農民達を集め、多額の金を使い堤防を作らせました。破格の給料を示された農民たちは、昼夜問わずに働き、わずか12日間で堤防は完成したといいます。

その堤防は、全長4キロ、高さ8メートルという巨大なものでした。これにより、足守川の水は、せき止められ、高松城は徐々に水浸しになってゆくのです。しかも、季節はちょうど梅雨時・・・。

 この異常な状況に、高松城を任されている清水宗治も黙ってみているはずもありません。当然のごとく、毛利氏に援軍要請を出します。毛利輝元などが駆けつけますが、その時すでに高松城は、湖に浮いた孤島状態。高松城を助けるには、堤防を壊す他なかったのです。しかし、羽柴秀吉がそう簡単には堤防に近づけることさえさせてはくれなかったのです。

 ならばと、毛利輝元は秀吉との話し合いを持ちかけます。この交渉にて、羽柴秀吉側は、毛利氏の領土半分を渡せ!また、清水宗治は切腹しろと迫ります。その条件は、毛利氏にとっては到底飲める条件ではありませんでした。しかし、その時、歴史を動かす大事件が起きます。本能寺の変です。信長が明智光秀の裏切りにより、本能寺で自害してしまったのです。
「信長公が亡くなった!」秀吉は驚いたでしょうね。この知らせにより、羽柴秀吉は、高松城どころではありません。一刻も早く、信長の敵打ちに・・・。

幸い毛利側には、信長公の死は知られていません。羽柴秀吉は、敵陣に通じる交通網を遮断し、毛利側に信長の死を伝える使者が来るのを防ぎました。そして、交渉の条件を緩め、清水宗治の切腹、それさえ受け入れてくれれば、すぐにでも兵を引き上げると伝えました。

清水宗治は、秀吉から送られた酒と肴で宴を開き、その後、自害します。清水宗治の死を見届けた秀吉は、毛利氏からの追撃を防ぐ為、高松城に築き上げた堤防の水を切り落とすと迅速に姫路城に向かって70キロを2日間で駆け抜けるのです。兵をたまったもんではなかったでしょうね。これが秀吉の「中国大返し」と言われています。

 毛利側が、信長の死を知ったのは、その後。羽柴秀吉に信長の後ろ盾がないとわかれば、清水宗治を切腹させることも抑えられたし、そもそも秀吉すら倒すことができたのに・・・。と毛利はさぞ悔しい思いをしたでしょうね。これが有名な備中高松城の戦いでした。
※絵は左側秀吉の軍に水攻めに遭う高松城です。こんなに水に囲まれたのがわかります。