学校日記

本能寺の変は何故起きたのか・・・!「お〜」

公開日
2013/09/14
更新日
2013/09/14

校長室から

何故に明智光秀は主君、信長に謀反(むほん)を起こしたのか。これには多くのエピソードがあります。そこでエピソードをかき集めてみました。

織田信長は抵抗を続ける比叡山延暦寺を許さず、一斉に火を付けて、寺社・仏閣を完全に燃やし尽くし、そこにいた僧侶や女子供3000人をすべて殺害したのです。信長の配下であり、この比叡山延暦寺の焼き討ちにも参加した 「羽柴秀吉」 や 「明智光秀」 は、出来る限り僧侶を逃がそうと努力していたと言われています。また、明智光秀は後年、この地に領地を持ったため、比叡山の復興に尽力しています。まずは残忍さについて行けなかったことがあげられます。

また、明智光秀は元々お酒はあまり飲めない人でした。 しかし、それでも織田信長は明智光秀に酒を飲ませようとします。そして、飲めない明智光秀を野次ったり中傷したりする事が多かったようです。二つ目はいじめか・・・。

三つ目は個人的にはこれが大きいと思うのですが、「丹波」の地で織田信長に抵抗を続けていた大名 「波多野家」があり、長い戦いの末、ついに波多野家は明智光秀に降伏します。そして明智光秀は真ん中に入り、なんとか波多野家を守ってやろうとするのです。そのために母を波多野家の人質にして、「安心しろ、私が何とかする」とでも言ったのでしょう。そして大名 「波多野秀治」 と弟の 「波多野秀尚」 を、織田信長の元に送るのですが、織田信長はこの両者の降伏を許さず、処刑してしまいます。そのことによって光秀の母は「話が違う」ということで波多野家に殺されてしまうのです。これで、織田信長に深い恨みを持ったと言われています。

この他に徳川家康の接待役を拝命した時、フナ寿司を出し、信長の逆鱗(げきりん)に触れお役目ごめんになったこと。さらには、突然、領土を信長にめしとられたことなどがあります。

信長は光秀を本当は可愛がっていたのに、通じなかったのかもしれません。いずれにせよ本能寺の変は起こるべきして起こったのかも知れません。歴史はロマン!マロンでない!