学校日記

朝会より【円谷光吉選手に思う】

公開日
2014/01/20
更新日
2014/01/20

校長室から

2020年に東京オリンピック・パラリンピックが決まりました。前回の東京オリンピックは先生は小学生でした。そこで多くの感動を味わったものです。そして忘れられない選手も多くいますが、その中にマラソンの円谷光吉(つぶらやこうきち)という選手が特に印象に残っています。今流れているのはピンクピクルスの「一人に道」という曲です。この円谷選手を歌ったものです。円谷選手はマラソンの3人目に選ばれたあまり期待もされていない選手でしたが、当日は調子良かったのでしょうか、なんと42.195キロの最後、国立競技場に2位で入ってきました。そしてその後ろにイギリスの ベイジル・ヒートリーがつき、トラックで抜かれて3位になってしまいました。日本の皆さんは3位に入った喜びよりも抜かれた方がショックに感じられたように覚えています。
さて、この円谷選手ですが次のメキシコオリンピックに向け再稼働するわけですが、日本のみんなも当然金メダルと期待しました。この当時、円谷選手には付き合っている女性がいました。結婚まで約束した女性でした。ところがこれが上官から猛反対受けるのです。「金メダルを狙うことが使命となっているこの大事な時に、女性を追いかけてどうするのだ」と。やがて、二人の結婚は破綻してしまうのです。当時の自衛隊学校には上官の許可なしで結婚はできなかったのです。そして、さらには円谷選手には腰痛という大きなハンディがあったのです。練習も思うようにいかなく、記録も上がらず、唯一支えていてくれた彼女はおらず、円谷選手はどんどん落ち込んでいくのです。そして円谷選手は自ら死を選んだのです。円谷選手の遺書には
父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」から始まり、家族達への感謝の言葉と続き、「幸吉は父母上様の側で 暮らしとうございました」で結ばれていました。特に「 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に衝撃を与えました。日本のために全てを犠牲にし、そして、有能な若者が死を選んで行ったのです。これがこの曲となって世の中に出てきたのです。
みなさん、時には「NO」ということも大切だし、夢を追いかけてダメだったなら、諦めるのも大切ではないでしょうか。円谷選手は弱音をはける環境でなかったことがあまりにも可哀想です。付き合っている人と別れさせられるとはとんでもない時代でした。今はこんなことは絶対ありえません。どうか思いっ切り人を愛してください。余談ですが、好きな人と別れても、いつかは時間が解決してくれると思うのです。一番良いのは次の女性を見つけること。世の中半分は女性です。そして今日、一番言いたいのは、絶対やってはいけないことは死を選ぶことです。周りの人にも一生の苦しみを与えるからです。死まで覚悟するなら逃げなさい。環境を変えなさい。
今日は心に残る円谷選手について話しました。