学校日記

豊臣秀吉の「中国大返し」

公開日
2014/07/14
更新日
2014/07/14

校長室から

みなさん、日曜日の大河ドラマ観られましたか?いよいよ信長、明智光秀の謀反により本能寺の変により討たれます。その時、豊臣秀吉は備中高松城の城主清水宗治と戦っていたんです。昨日のドラマでは使者が信長の死を密書によって伝えたとなっていましたが、一説では明智光秀の密者を秀吉が捕まえ、持っていた密書を奪い知ったともあります。

秀吉にこの連絡が伝わった時、軍師黒田孝高は秀吉に主君信長の仇を討つよう進言したといわれています。昨日やっていましたね。この時、毛利氏は、信長との直接対決を回避しようとしていたのであり、ここでは、情報入手における微かな時間差が、その後の両者の命運を大きく分けたことになります。

秀吉はすでに水攻めでアップアップの城主清水宗治の切腹と3か国の割譲で毛利側と手を打つのです。そして、清水宗治の切腹を見守ると誰よりも早く明智光秀を討とうと東に走りに走るのです。これを「中国大返し」というのです。

行軍は、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、悪天候のなか1日で70キロメートルの距離を走破したとあり、これは当時にあって驚異的な速度といわれます。70キロメートルとは江南市から南知多ぐらいの距離です。秀吉はもちろん馬でしょうが、足軽が70キロメートル走るのは大変だったと思います。次回はこの「中国大返し」のシーンが出てくるのではないかと非常に楽しみです。

※絵は水攻めにあう備中高松城です。