三条河原、それは残酷な処刑でした・・・。
- 公開日
- 2016/07/18
- 更新日
- 2016/07/19
校長室から
三条河原の処刑は過酷な処刑とされています。豊臣秀吉は秀吉の姉の子、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を可愛がっていたんです。茶々との間にできた、鶴松が亡くなると、彼を自分の子として迎え、関白の職を譲ったのです。
ところがその後になって豊臣秀吉に茶々との子、秀頼(ひでより)が誕生するのです。そうなると、世継ぎはこの秀頼にしたいのが親というものでしょう。あまりにも地位を与えすぎた豊臣秀次が心配になってきたのではないでしょうか。『いつか、秀次が秀頼を討たないだろうか・・・。その前に・・・。』想像ですが・・・。
理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山の青巌寺に贈られ、後に切腹となるのです。秀次の首は三条河原に持ち込まれ、さらし首とされ、その際に秀次の家族、側室。侍女ら39名が処刑されたのです。特に可哀想なのは山形城主最上義光の駒姫で側室に上がるため最上屋敷で疲れをいやしていたのですが、11番目に処刑されてしまうのです。まだ15歳でした。
今やこの三条河原、デートスポットとなっていますが、あまりお勧めできない気がするのですが・・・。