松坂大輔、誰もが待ってる マウンドの勇姿を!
- 公開日
- 2017/01/17
- 更新日
- 2017/01/17
校長室から
忘れもしません。こんなすごいピッチャーがいたのかと日本中が驚いたものです。彼の名は松坂大輔投手です。
横浜高校に進学した彼は1998年の第70回選抜高等学校野球大会では他校を寄せ付けず優勝するのです。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会ではすごいことやってくれました。
準々決勝ではPL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利するのです。翌日の準決勝、対明徳義塾戦、本当は投げられたと思うのですが、世間の松坂保護の風もあり、先発しなかったと思うのですが、もうダメと日本中誰もが思ったこの試合、彼が1イニングに登板し、なんとそこからチームが打って出て逆転劇を呼び込んだのです。
そして決勝の京都成章戦ではノーヒットノーランという快挙を成し遂げます。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成したのです。スター、それも大スターがここに誕生したのです。
プロに入っても高卒史上初となる新人年からの3年連続最多勝を達成し、沢村賞を受賞しました。第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場しまたまた大活躍します。大会最多となる3勝を挙げ大会の最優秀選手(MVP)に選ばれたのです。
2006年にボストン・レッドソックスが約60億で独占交渉権を獲得したことが発表されると、レッドソックスファンであるアメリカ国務次官補のクリストファー・ヒルは、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと交渉の行方を気にかけていた話は有名です。そして彼は大リーグに入り、大活躍で世界中から認められる選手となっていったのです。
順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な彼に今まで酷使した右肘に異常が発生します。張りが生じ、思うように成績が伸びず故障者リスト入りし、2011年に手術を受けたのです。それからの松坂選手は怪我と戻らぬスピードやコントロールとの戦いだったのです。やがてはインディアンズ、メッツと転々として故障者リスト入りなど繰り返し、やがてはシーズン終了後フリーエージェントとなったのです。
2014年に日本に戻り、ソフトバンクと契約したのです。そして今に至るのです。
あまりにも偉大だっただけに、今の彼が信じられないのです。またあの彼なら何かやってくれるとみんなが期待するのです。必ずよみがえる、松坂大輔と誰もが信じているのです。野球ファンは敵味方関係なく誰もが楽しみにしているのです。歩んできた道が偉大すぎて