江南市縁の7人の戦国武将 −3− 前野将右衛門長康
- 公開日
- 2018/04/30
- 更新日
- 2018/04/30
布袋の歴史
江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第3弾は前野将右衛門長康です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。
前野長康も時代に翻弄された武将です。
ドラマも作れそうな波瀾万丈な人生を歩みました。
1528年に、木曽川の川並衆、前野家(現江南市前野町)に生まれました。(異説あり)
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。
後の秀吉の最古参の家来なのです。
1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。
この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。
なお、長康の子、前野景定は、あの細川忠興とガラシャとの間にできた娘、於蝶を正室として出石で迎えました。
ご存じのようにガラシャは明智光秀の娘です。
長康は聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。
その後、関白豊臣秀次付きとなります。
まさに、秀吉に最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。
そして、あの事件が起きます。
1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。
秀次は、秀吉の姉・智子の子です。
実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。
しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。
これが秀次事件です。
高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。
このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。
これこそ「とばっちり」。
正室・於蝶は、処刑寸前のところを助けられました。
母のガラシャは父の謀反に、娘の於蝶は義父の謀反の疑いに巻き込まれたのです。
歴史の因果・因縁を感じさせます。
秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。
おそらく冤罪でしょう。
これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれませんがわかっていません。
歴史的なバックボーンのある他の武将に比べて、農民から出世した孤高のトップ、秀吉の晩年が、いかに疑心暗鬼になっていたかをうかがい知ることができる事件です。
秀吉ほどの天才でも、弱点があったのですね。
あれほどの器の持ち主でも、晩年は哀れでした。
人間の限界なのでしょうか・・・。
もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。
180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。
私は?
意見はありますが、ここではコメントを差し控えます。
いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦の一因となったのです。このことはまた後日紹介します。
『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記です。
写真上 吉田家の蔵から発見されました。
写真中は説明です。
長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。
「ドラマになりそうな人生」と書きましたが、最後があまりにも悲劇でした。
写真下の長康公は吉田家蔵の肖像ですが、かなり晩年のものと思われます。
不幸な晩年の悲哀を感じます・・・
明日は、生駒利豊を紹介します。