学校日記

江南市縁の7人の戦国武将 −5− 生駒 親正

公開日
2018/05/03
更新日
2018/05/03

布袋の歴史

江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第5弾は生駒親正です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。


この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。

1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。

これまで紹介してきた尾張生駒氏とは違い、信長の母の土田氏に繋がる、土田生駒氏です。

その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます

60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。

そして、三中老のひとりなります。

三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。

生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。

ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。

五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。
どの武将もどちらに付けばよいか苦悩します。
親正もその一人。

讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。

結果はもご存知の通り東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。

このように親子が東西に分かれることはよくありました。
蜂須賀家もそうでしたね。
「家」「氏」が生き残るためのすべなのです。

歴史上の他の戦でも、親子、兄弟、叔父甥などで、敵味方に分かれて戦争をした例の大半は、同じ理由だと思います。

高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。


明日は織田信忠です。