【校長日記】 富士塚の碑文−2−
- 公開日
- 2015/05/29
- 更新日
- 2015/05/29
校長日記
富士塚の碑文を紹介しています。
2回目は、前回の続きで、正面から見て右側の面です。
写真と見比べながらお読みください。
有聲聞其次加賀守豊政其次藏人家宗其次八右衛門尉家長相繼爲
國士右大臣織田信長娶家宗之女生二男一女其長則秋田城介信忠
其次則内大臣信雄也其女嫁岡崎三郎源信康由是信長於家長亦眷
遇不謭天正十二年信雄與相國豊臣秀吉有隙信雄通志於
東照大神君議軍事
神君入尾州屯兵于小牧山與信雄共赴小折村到家長宅時家長承信
「東照大神君」は徳川家康のことです。
現代語訳です。
文明年中[一四六九〜八七]、世間の評判がとても良かった。その次は加賀守豊政、その次は蔵人家宗、その次は八右衛門尉家長と、相継いで国士であった。
右大臣織田信長は家宗の娘を娶り、二男一女をもうけた。その長は秋田城介信忠、次は内大臣信雄である。
娘は岡崎三郎信康に嫁いだ。これにより信長は家長をことに手厚くもてなした。
天正十二[一五八四]年、信雄と相国[太政大臣]豊臣秀吉との間に争いがおこった。
信雄は東照大神君(徳川家康)に志を通じて戦について相談した。
神君(家康)は尾州に入り小牧山に兵を駐屯させた。
信雄と共に小折村に赴き、家長の屋敷に到着した。
「家宗の娘」が吉乃のことです。
娘・徳姫が、家康の長男 信康に嫁ぐなど、家康との関係の濃さがわかります。
続きます。
出典は、(社)生駒屋敷 歴史文庫
http://www.ikoma-yashiki.com/?page_id=75