【校長日記】 名古屋の街にはなぜ墓地がない?
- 公開日
- 2015/08/04
- 更新日
- 2015/08/04
校長日記
夏休み中は、社会科に関係のある雑学を紹介しています。
今回も、かつて、おもしろ学校で行った授業のネタです。
先日、名古屋にはお寺が多いと紹介しました。
写真上の右上部をご覧ください。
東京タワーに上ると、プリンスホテルの手前に墓地が目に入ります。
ここでは見えませんが、右下には増上寺の墓地があります。
東京では、いろいろなところに墓地があります。
しかし、名古屋のテレビ塔に上っても墓地を捜すことはできません。
なぜでしょう?
戦後、佐藤正俊名古屋市長に戦災復興の一大事業を任され、後に助役になったのが田淵寿郎 です。
彼の発想、先読みの力は、今考えても驚異的です。
空襲で焼け野原になった名古屋の街を見て彼が考えたことは…。
彼は2本の100m道路を構想しました。
(滑走路でも造るのかとからかわれました。)
さらに、南北の久屋大通の地下には将来のモータリゼーションに備えて駐車場を、
東西の若宮大通の地下には大雨に備えて雨水貯留槽をつくり、新堀川に流れるようにしました。
写真中の上部が東西に延びる若宮大通り。中央が掘留下水処理場、そこから南に新堀川が流れ出ています。
9本の50m道路は将来の地下鉄に備えました。
鉄道はすべて高架にし、踏切をなくしました。
道路には街路樹を植えました。
(街路樹を植えた元祖は信長といわれています。江南市には、信長が植えた柳街道があります。)
緊急時の避難用に学校に公園を併設しました。
極めつけとして、市内各所に有った279の墓所をまとめて一カ所に集中させる平和公園を作りました。(写真下)
これらは、当時は猛反発に遭ったそうですが、粘り強く寺や地主を説得しました。
これらの理由から、名古屋市中心部付近には墓地がないのです。
全市の20%を超える土地を道路・公園用地にするという発想は、その後の都市計画に大きな影響を与えました。
その後も、鉄道立体化、名古屋港湾整備などを進めた後、引退した彼は何をしたでしょうか?
無理に移転させた墓の霊を弔うために、墓守をしたのです。
現在も平和公園に眠っています。
大きな人物です。
画像は、Google Map から引用しました。