干支を使って計算しよう!
- 公開日
- 2017/08/24
- 更新日
- 2017/08/30
社会科お役立ち情報
夏休み中は、社会科に関係のある雑学を紹介しています。
昨日は、干支の法則性について述べました。
いよいよ干支を使って計算 してみましょう。
まず、法則性を考えてみます。
閉幕した甲子園大会にちなんで、「甲子」を例に考えてみましょう。
最初の干支「甲子」の10年前は「甲寅」、20年前は「甲辰」、30年前は「甲午」、40年前は「甲申」、50年前は「甲戌」、そして60年前が「甲子」に戻るのです。
だから還暦 というのです。
すなわち、十干の部分「甲」は同じで、十二支の部分が「子→寅→辰→午→申→戌」と、一つおきに下がっていくのです。この性質を利用して考えるのです。
寛永5年(戊辰)に生まれて、元禄13年(辛巳)になくなった徳川光圀は何年間生きたのでしょう?
(写真 Wikipediaから引用)
まず、十干の部分を揃えましょう。「辛」の3年前が「戊」なので、「巳」も3年遡ると「寅」、したがって元禄10年が「戊寅」です。
「寅」から「辰」まで数えると、「寅→辰」、そう10年です。「戊辰」と「戊寅」の間は10年。
したがって、「戊辰」と、「戊寅」の3年後「辛巳」の間は13年という事になります。
しかし、徳川光圀が13歳で亡くなったというのはありえません。もう一周り(60年)前ということになります。
そう、徳川光圀は13年に60年を加えた73年間生きたことになるのです。
昔の人は、このあたりを簡単に計算出来たようだという記事を見たことがあります。
干支が身近だった時代ですから、あり得る話ですね。
ちなみに、「徳川光圀」とは、いわゆる「水戸黄門」のこと。
光圀自身は、子どもの頃に鎌倉へ、藩主時代には江戸と水戸との往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという史実は一切ありません。
テレビの水戸黄門は、全くのフィクションです。