【校長日記】生駒利豊が東軍、平三郎が西軍になぜ分かれた?
- 公開日
- 2015/11/25
- 更新日
- 2015/11/25
校長日記
11月9日の続きをまだ触れていませんでした。
お題は、関ヶ原の戦いでは、生駒利豊が東軍、甥の平三郎が西軍に分かれてた戦いました。
なぜ、親族の中で敵・味方に分かれて分かれて戦ったのでしょうか?
関ヶ原の戦いは、まさに天下分け目の戦いでした。
情報戦では東軍有利、関ヶ原の布陣では西軍有利と今だから言えますが、当時の人にはどちらに付いてよいのかわかりません。
「勝ち馬に乗る」という諺があります。
「有利な方につく。勝った方に味方して便乗する。」と解説がありますが、当時はもっと切実です。
負けた側に付くと、お家は取りつぶされ、主だったものは女・子どもを含めて殺されるのです。
それでどうしたのか?
両方に付くのです。
同じく江南生まれの蜂須賀家政はどうしたのでしょうか?
彼は、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に入ります。
そして、子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。
どちらが勝っても、蜂須賀家は残るようにしたのです。
讃岐生駒家の生駒親正はどうしたのでしょうか?
讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが、自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
これも、どちらが勝っても生駒家は残るようにしたのです。
結果はもちろん東軍の勝利。
蜂須賀家も生駒家は安堵されます。
くり返しますが、関ヶ原の戦いは、文字通り、天下を分けた戦いだったのです。
写真は、家康が最初に陣を置いた桃配り山から見た、三成のいた笹尾山です。よく見えましたが、小早川秀秋のいる松尾山は、高木に遮られ視界に入りません。
桃配り山は、指揮のためのベストポジションとは言い難いかもしれません。
家康は、指揮よりも、自分も動ける場所を考えたのかもしれませんね。