井上一樹氏の講演 (前編)
- 公開日
- 2016/06/09
- 更新日
- 2016/06/09
学校行事
日曜学級での井上一樹氏の講演の概略を紹介します。
内容は概略であり、主観も交じっていますので、この内容について井上一樹に責任は一切ありません。転載はご遠慮ください。
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出身は鹿児島県霧島市。霧島市をご存じか?合併して霧島市になった。
温泉、お茶、黒霧島、黒豚、黒牛。今霧島市の親善大使をやっている。横綱白鵬関も霧島市親善大使。彼の方が貢献度が高い(笑)。現役時代なら、もっと貢献できたと思うけど。
1999年、リーグ優勝した。背番号99。ピンクのリストバンド。「ピンキー」と呼ばれるようになった。「一」はピン。「樹」はキ。一樹で「ピンキー」。
なぜピンクにしたか。ユニフォームは、背番号以外はすべて同じ服だから個性を出したいと思った。古いファンには覚えてもらった。印象深くするのは計算内のこと。
開幕から11連勝。今と違ってナゴヤドームは常に満員。巨人との差が詰まってくると、優勝して当たり前といわれてつらかった。これで優勝逃したらたたかれるプレッシャーがあった。やっと優勝にたどり着いたときには嗚咽した。
選手はどこか痛めている。その中で優勝したらやってよかったと思った。苦しんだから喜びがある。勝たなきゃ得られるものがない。
その後、指導者になって、先輩として、必死にやってへたくそな選手はかわいい。できるけど努力しない奴は嫌い。
今日は育成論。みなさん、子どもを育てるのは大変な時期。
昔は、体育会系部活動をやっていたら体罰があった。プロになっても。
今は通用しないかけど、当時はそれはそれでありだった。今は手を挙げられない。厳しい言葉を発すると、パワハラ、モラハラといわれる。難しい時代だ。
チームは自分の子ども同然。必死にやると、怒ることもある。それが問題になるので、熱血指導ができない。それが悲しい。
みんなが左回り走っているときに右回りで走る子がいるときはチームでは成り立たない。チームプレーは同じ方向を向いて走らないと困る。
試合に出せばエラーするB、試合ではそこそこ打つが練習は嫌いなA。一軍ならAを使う。
Bは2軍から1軍に上げてやろうと思わせる。そういったものを子どもなりに見せることができるかどうか。それで、伸びる伸びないが決まってくる。
私は田舎で育った。ずば抜けた選手ではなかったが、それでもエースで四番。子どもの頃には厳しく育てられた。
小学校の頃には野球チームに入りたかった。親は「入ってもいいが、毎日6時に起きてランニング、素振りをしなさい。それでよかったらいいよ。」
その言いつけを守った。起きれないときは、おやじが一緒に走ってくれた。母親も厳しかった。
中学校では変わった。練習する習慣が身に付いているので、自分の中で、やらなきゃ気が済まない。母親のしつけがそうさせた。そうなれば勝ちだ。
中学校3年生になったら、高校を考える。井上家は相撲会と縁があり、逆鉾、寺尾と親戚。相撲部屋の親方が一樹をよこせと来た。東京に遊びに行った。相撲会に入るとこんなよいことがあるんだと接待され「わかりました」と返事した。
しかしその頃、鹿児島商業がベスト4に入った。近藤真一が享栄高校の頃。かっこよかった。「やっぱり高校野球やりたい」と親方に断りを入れた。「一樹が決めることだからしょうがねえ」と言われて許された。
(明日に続きます。)

