入鹿切れ 150年
- 公開日
- 2018/04/12
- 更新日
- 2018/04/12
布袋の歴史
今朝の中日新聞に、「入鹿切れ」死者を悼む という記事が載っていました。
今年は、入鹿池の堤防が切れて150年目なのです。
Wikipediaには次のように書かれています。
入鹿切れ
完成より235年、それまで一度も大きな災害を起こさなかった入鹿池も、明治元年(慶応4年、1868年)4月終わり頃からの大雨には耐えられなかった。5月13日の七ツ(午前2時ごろ)に百間堤が決壊し、入鹿池一杯に貯まった水は下流に溢れ、多大な被害を出したのである。これを明治元年の「入鹿切れ」(いるかぎれ)と呼ぶ。被害については幾つかの記録があるが、「入鹿切ニ付溺死人ノ調」によれば死者774人とされる[3]。また、楽田村の鈴木三郎正久家による「入鹿池堤防決潰」によれば浸水は丹羽・中島、春日井、海部の4郡に及んだといい、記された被害は以下の通りである。
死者 - 941人
負傷者 - 1,471人
被害にあった町村 - 133町村
建物への被害 - 流失家屋807戸、浸水家屋11,709戸
流失耕地 - 8,480町5段歩
特に羽黒村の被害は酷く、家屋の屋根に避難しても逃れられず、多くが濁流に流された。下流の布袋(ほてい、現在の江南市布袋町)では、水が引いた後に、腐乱死体がそこら中に転がっている有様であったという。これらの死体は、穴を拵えてそこに埋め、塚とした。
布袋まで、多くの人が流されてきたことがわかります。