人はまず服装で判断される!
- 公開日
- 2012/07/05
- 更新日
- 2012/07/05
そのほか
服装で歴史的に忘れられないことがあります。それは織田信長と斉藤道三の聖徳寺の会見です。
「美濃の蝮(マムシ)」と呼ばれ、戦国時代を代表する武将の一人・斎藤道三がいました。
道三は尾張の織田家とも敵対していましたが、険悪な関係を改善するために娘を織田信長の元へ嫁がせました。可愛い娘(濃姫)を嫁がせたものの、信長は尾張では評判の「おおうつけ」者でした。服装(うつけスタイル)を取ってみてもそのように見えるのでした。 気が気ではない道三は信長の器量を見極めるため、美濃の聖徳寺で信長と会見をすることに決めました。
道三は会見予定時刻より早くに聖徳寺に着き、寺近くの町屋に隠れて信長一行が来るのを待ち構えました。 本当の信長はどんなものか見ようという計画だったのです。
しばらくして現れた信長の姿は、髪型は変形スタイル、服は片肌を脱いで、腰には荒縄を何重にも巻き、火打石やヒョウタンを腰からいくつもぶら下げているという異様な風体でした。噂に違わないうつけスタイルでした。
この信長の姿を見て道三は「駄目だこいつ、早くなんとかしないと」と思ったそうです。しかし、そんな信長の後に続く織田の隊列に思わず目を疑いました。
なんと信長のあとに続く槍隊、弓隊、鉄砲隊は、三間半という美濃衆の槍より長い朱槍を500本、弓・鉄砲を各500丁装備しているという見事さでした。この装備は道三配下の家来衆より数段優れています。
その後道三は聖徳寺に戻り、約束の時間通りに会見が始まりました。
そのときの信長は来るときのうつけスタイルではなく、折り目正しい正装でやってきて、道三を二度驚かせたのです。会見の間も信長は礼式にかなった立ち居振る舞いを見せつけ、文句のつけようがありませんでした。その時、道三はいつか、我が斉藤家は信長に従う日がくるなと確信したそうです。
我々も服装からうつけ者(世間知らず)と間違われないようにしたいものです。