学校日記

一夜城 それはそれは、おかしな城

公開日
2012/07/24
更新日
2012/07/24

そのほか

歴史の話はおもしろいです。さて、今日は「一夜城」についてです。これは今の大垣市墨俣(すのまた)にわずか1日で出来たとされるお城のことです。実際は無かったという説もありますが、実在したという前提で調べ書いてみます。(歴史はマロン、嫌、ロマン)

稲葉山城を攻めあぐんだ信長は長良川と揖斐川にはさまれた墨俣に城を築き、そこから美濃を攻めようと考えます。しかし、敵の目の前に城を設けることは大変難しく、工事中に攻められるという心配もありました。しかし、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は「私が引き受けます」と申し出るのです。他の武将は「墨俣は木下藤吉郎の墓場よ」とばかにしていました。
 
木下藤吉郎は西美濃三家衆(美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元)とうまくやるわけです。なんせ、木下藤吉郎は戦いより、事前の根回しが得意中の得意で、戦死者はあまり出さずに勝利することが得意でした。この3人をうまく味方にし、大工や土木工事の力も味方とするのです。

一夜城といいますが城は一夜で建つわけはありません。材木は、あらかじめ必要な長さに切って、上流で組み立て式にして、いかだで流しました。その加工をして流したところは今の川島町松倉だとされています。

(でも、不思議だと思うのは木曽川上流の木を川島で拾い上げるまではいいのですが、そこで加工し、長良川までどうやって運んだのでしょうか・・・。資料では木曽川の一大分流・境川を利用し墨俣まで運んだとなっています。境川は、岐阜県各務原市北東部に源を発し、岐阜市、羽島郡岐南町、 笠松町、羽島市を経て長良川に注ぐ一級河川です。なるほど、木曽川と長良川つながらないこともないですね)

みなさんは城と聞くと、岐阜城みたいなものを想像されるかもしれませんが、実際は、馬柵を結び、にわか仕立ての小屋と馬柵だけのものでした。しかし、この馬柵こそ、鉄砲部隊が利用すればすごい力になることも木下藤吉郎は知っていたと思います。こうして、できた城ですが、敵軍2000の兵が攻め来るも、馬柵と鉄砲で守り通し敵は退却したとあります。

さて、現在この墨俣にはまたまた不思議なお城ができています。四層6階建ての立派なお城があり、これを一夜で建てたと勘違いされては困るのですが・・・。