学校日記

江南市縁の7人の戦国武将 −6− 織田 信忠

公開日
2018/05/04
更新日
2018/05/04

布袋の歴史

江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第6弾は織田 信忠です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。


江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

弘治3年(1557年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町〕
幼名・奇妙丸、菅九郎、秋田城介
『従三位左近衛中将 岐阜城主』賜う
天正10年(1582年)26歳 逝去

信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。

15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。
18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。
25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。
しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。

歴史に「もし」は禁句と言われていますが、私はそうは思いません。

いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。
もちろん正解はありませんが・・・

もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・

天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。

武田攻めの時には、信長は信忠を総大将に送り込みました。
信長は、自分の到着までは、武田に攻め寄せることを禁じていました。
しかし、信忠はそれを無視して、相手の状況を判断して滅ぼしてしまいました。
これを聞いた信長は、側近に、「これで安心だ」というようなことを言っていました。

これだけの人ですから、本能寺の変のあとも、跡取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。

柴田、丹羽などは信忠が絶対なので、秀吉といえども信忠には逆らえません。
織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。

そして名古屋に幕府を開くのです。

などと、勝手な想像は楽しいですね。