【校長日記】 生駒 平三郎
- 公開日
- 2015/11/09
- 更新日
- 2015/11/09
校長日記
10月22日の校長日記で、梅塚を紹介しました。
ここには、「生駒平三郎の廟也」と書かれています。
「生駒平三郎」については、後日説明すると書いたので、ここで紹介します。
生駒氏といえば、信長の室、吉乃ですね。
その吉乃の兄が、四代 生駒家長です。
小折の宝頂山墓地の五輪塔が家長の墓です。
その子が、生駒平蔵、そして四男(史料によっては五男)が利豊です。
宝頂山墓地の家型墓地が利豊の墓です。
「生駒平三郎」は、平蔵の子です。家長の孫であり、利豊の甥にあたるのです。
平三郎は、織田信秀に仕え、小牧・長久手の戦いで活躍しています。
関ヶ原の戦いでは、叔父・利豊が東軍、平三郎が西軍と分かれて戦いました。
平三郎は、畔柳半助(史料によっては柳田半助)と槍で戦い、二人とも谷に落ち、半助に首を取られました。まだ、25才だったそうです。
壮烈な最期ですね。
西軍だったために、墓地もこのような質素なものになったのでしょう。
では、叔父・利豊が東軍、平三郎が西軍と分かれて戦ったのはなぜでしょうか?
また、後日紹介します。