織田信雄 焦りの書状
- 公開日
- 2018/05/17
- 更新日
- 2018/05/17
布袋の歴史
昨年7月8日の中日新聞 朝刊に、「織田信雄 焦りの書状」という見出しの記事が掲載されました。
再掲します。
書き手は、布袋小学校区で産まれた織田信長の次男、織田信雄です。
注目なのは、書かれたのが、清洲会議(天正10年6月27日 1582年)の開かれた3日前だからです。
会議に集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興。
ドラマなどでは、秀吉が三法師(信忠の嫡男)を擁立し、勝家が信孝(信長の三男)を後継者に推して対立したということになっていますが、どうも実際には違うようです。
織田家の後継を、二男・信雄と三男・信孝が互いに主張したため、勝家や秀吉らが、事前に三法師を立てるように了解済みであったという記録が残っています。
そもそも、信雄と信孝は、母が異なり、誕生日もどちらが早いのか明確ではないのです。
この書状は、信孝との後継者争いに絡んで、秀吉の気を惹こうとする意思が読み取れます。
歴史は、生身の人間が生きた跡なのです。