【校長日記】 韮山反射炉の謎
- 公開日
- 2017/03/13
- 更新日
- 2017/03/13
校長日記
昨日の記事で、かねてからの疑問が解決しましたと書きました。
そうしたら、かねてからの疑問とはどんな疑問ですか?と質問をいただきました。
良い質問です。さっそくお答えします。
その疑問とは、Q なぜこんな条件の悪いところに造ったの?という疑問です。
反射炉とは、簡単に言えば製鉄所の炉と同じです。
製鉄所は必ず海の近くにありますね。
なぜなら、原料となる鉄鉱石や石炭、また、製品も船の方が運びやすいからです。
伊豆半島は基本的に山です。
当時はトラックもありません。
なのに、なぜ、製鉄所みたいなものをこの韮山に造ったのでしょうか?
これが行ってみてわかりました。
この反射炉を造ったのが、幕末の偉人の一人、
韮山代官 江川英龍。
英龍は、1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚え、海防政策の一つとして、大砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を訴えました。
そして、1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。
やはり、初めは海の近くの、伊豆下田に築造を開始しました。
当然、鉄の原料や製品の運搬に便利なためです。
しかし、翌1854年(安政元年)、下田に入港したアメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入しました。アメリカに情報が漏れたのです。
幕府は、アメリカに敵意のないことを示すために、建造を中止します。
それでは英龍は収まりません。
そこで、江川英龍の地元である伊豆韮山に、密かに建造場所を変更したのです。
1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)に完成した。
立地条件としては良くないのには、そんな理由があったのです。
ここで鋳造した大砲は、江戸湾のお台場に設置されました。
右下の写真の像が江川英龍です。