学校日記

御囲い堤

公開日
2019/04/17
更新日
2019/04/17

学校の歴史

このカテゴリーでは、草井小学校や草井地区、江南の歴史について考えていきます。

今回は、草井地区には欠かせない話題御囲い堤です。

『くさの井史』P177には「御囲い堤が築かれる」とあります。
本文を引用します。
平岩親吉は、検地奉行伊奈備前の守の発意になる尾張国境を擁護すべき大堤の築造を家康に進言し、家康の大命によって伊奈備前の守が木曽川修築工事の局にあたり、慶長14年(1609年)には略々築変されるというスピードさであった。築堤は犬山より延々50キロの弥冨に及び、ひとり木曽川の水害を防御するに止まらず、西国に備えての軍略上の意図が家康の主因とするところであった。よって、徳川幕府の要衝、尾張平野を安全に囲み、防護するものとして、この堤を、後世、「御囲い堤」と称せられる。

上の左図の画像出典は、『濃尾用水拾余話』3 御囲堤の功罪−美濃の不文律です。
  ここから http://suido-ishizue.jp/nihon/12/03.html
史上名高い不文律「美濃の諸堤は、御囲堤より低きこと三尺たるべし」により、美濃の人々が苦しめられたいうことです。

また、下の画像は、3年生以上の児童が使用している『のびゆく江南』からお借りしました。

御囲い堤には、皆さんもご存じのように、写真のように桜が植樹された所が多くあります。
それはなぜ?

一説には、幕府が、「人々が桜を観賞することにより堤防が踏み固められる」と考えたからです。本当でしょうか?

『くさの井史』の一部です。
川面した側には、本堤の外に、二重の堤、三重の堤と称する副堤防や猿尾と呼ばれる水はね用の突堤を数多く築造して、今日の築堤学上よりみるも、その用意の周到さと規模の壮大さに驚嘆させられる。
草井地区、鹿子島地区などを守る堤がつくられたのです。

続きます。