御囲い堤 -2-
- 公開日
- 2019/04/23
- 更新日
- 2019/04/23
学校の歴史
前回は、「御囲い堤が築かれる」お話でした。
それ以前の、天正14年(1586年)以前の木曽川の様子が残されています。
それをわかりやすくしたのが上の図です。(出典は 水問題研究所「木曽川物語」 http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso02.html)
これらの川は、現在も川・用水、あるいは川筋跡として残っています。
川筋跡は、ランニングをしていると、微妙な上り下りがよく分かります。
それでは、それ以前の木曽川はどんな川だったのでしょうか?
下の木曽川の河道変遷図をご覧ください。
(出典は、水問題研究所 http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso01.html)
大昔、今の濃尾平野は、川の氾濫を繰り返していました。
上流に雨が降ると、土石流がながれ氾濫して堆積していきました。
そうして、平野がつくられていったのです。
どこを掘っても丸い石が出るのはそのためです。
3000年位前になると、人々は集落をつくり、魚や貝を採って生活し始めました。
集落跡や縄文土器、魚を採った痕跡がいろいろなところで見つかっています。
九州に米作りが伝わると、この地域にも伝わってきました。
しかし、大規模な水田跡は見つかっていません。
おそらく、川が氾濫を繰り返したために、定住するには適さなかったかもしれません。
しかし青銅器や鉄器などの道具の進歩などで米の収穫量が増え、集落が大きくなり、尾張氏、葉栗氏、丹羽氏などの豪族も出てきました。
尾張の稲沢市付近に国府がおかれた頃の木曽川の様子を、上記「木曽川物語」は次のようにまとめています。
木曽川は、8世紀ごろは鵜沼川と呼ばれ、9世紀ごろは広野川と呼ばれており、前渡のあたりから北西に、現在の木曽川より北を現在の境川の川筋で流れて長良川へ合流しておりました。(下図参照)そして、それより下流は美濃川または尾張川と呼ばれていました。
現在の境川がこの痕跡であり、美濃と尾張の国境になっていて、尾張の国はもっと北西に広がっていたのです。
長くなりそうなので、いったん切ります。続きます。