御囲い堤 -3-
- 公開日
- 2019/04/24
- 更新日
- 2019/04/24
学校の歴史
昨日紹介した、木曽川の河道変遷図には驚かされます。
柳津のカラフルタウンの西に境川が流れていますが、それがかつての尾張と美濃の境だったのです。
尾張と三河の間にも境川があります。その他、全国各地に境川という川や、境川という地名が残っています。
水問題研究所「木曽川物語」http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso01.htmlには、次のように書かれています。
貞観年間(860年代)繰り返し起こった洪水により河道が変わり笠松を通過する線まで南下して長良川へ流れるようになりました。このため、尾張の国の葉栗郡60ヶ村、中島郡29ヶ村が美濃側にいきました。
上の図をご覧ください。
貞観年間の洪水で、川島を挟む現在の木曽川の流域が現れました。(灰色部分)
まさに、現在、江南市の北に流れている木曽川です。
この後が面白い!
尾張側は暴れ者の木曽川が尾張の国に居座られては困ったものだと、貞観7年(865年)河道を元に戻すよう工事を京に陳情しましたが、なんともなりませんでした。そして、翌年河道を元に戻そうとする尾張側とそうはさせまいとする美濃側との間で、「広野川の争い」と呼ばれる武力衝突が勃発しました。
何と、洪水の恐れがある本流を互いに押し付け合い、武力闘争にまで発展したのです。
それほど、生きるか死ぬかの話だったのです。
この広野川の争いについては、『くさの井史』P.41に詳しく書かれています。尾張側に、多くの犠牲者が出ています。
天正14年(1586年)の洪水では、笠松から南に流れる川ができて、ほぼ現在の木曽川の川筋になりました。
3年後に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を葉栗郡から羽栗郡へと改めました。
ここまで見てきたように、濃尾平野でくらす人は、川の氾濫のためにたいへんな目にあってきました。
「丈夫な堤防をつくってほしい!」というのは、この地域の人の永年の悲願であったのです。
それが、秀吉による文禄の治水、そして家康による御囲い堤となるのです。
続きます。