人情で生きた秀吉 【豊臣秀吉の中国大返し】
- 公開日
- 2012/07/10
- 更新日
- 2012/07/10
そのほか
今日は豊臣秀吉の話です。秀吉は主君信長を非常に尊敬していました。その信長が討たれたと知った時、どんな行動に出たのでしょうか。ここで大切になるのは「中国大返し」です。
中国大返し(ちゅうごくおおがえし)とは1582年備中(今の岡山県)高松城の戦いにあった羽柴秀吉が織田信長の本能寺の変での急死を知ったのち、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇(かたき)明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のことを言います。(ぜぇ〜、ぜぇ〜)
羽柴秀吉が、「信長たおれる」の知らせを聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことでした。『太閤記』では、光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕まえたからと説明されています。(ありゃ〜、ここが大きなポイントでしたね)
信長の死を知った秀吉は、情報が漏れないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても厳しく口止をして、毛利側に信長の死を知られる前に講和を結ぼうとします。一刻もはやく上洛しようとかなり譲った提案でした。3か国をいただくことと、高松城主清水宗治の切腹を和睦条件として提示しました。(宗治にしてみれば悲しくなる提示です)
清水宗治の自害を見送ってすぐ秀吉は明智光秀を討伐しようと雨の中、思い切って走りました。(騎馬隊は良いけど歩兵隊はきついですよね。案の定、到着日数に差が出てしまったそうです)
そして、13日、山崎(大阪と京都の境)で決戦に臨みました。そこで勝利し、明智光秀の逃走にまで導くのです。
秀吉の走りに走った中国大返しは信長への思いそのものではないでしょうか。もちろん次のリーダーとして名乗りを上げるのが目的だとは思いますが、それ以上に無茶苦茶走った秀吉の人情を認めてあげたいですね。