【校長日記】 続々 時代の先を読む力 −2−
- 公開日
- 2015/04/18
- 更新日
- 2015/04/18
校長日記
前回は、徳川家康が愛知の製造業発展の基礎をつくったということを書きました。
基礎の山林を育成し、木材を下流まで運ぶシステムを整えました。
それが、後の繊維産業、さらには自動車産業、航空機産業へと発展しました。
今回は、その続編、「名古屋は家康がつくった 上」です。
それ以前の尾張の中心地は清洲です。
清洲城にある清洲の街の模型(写真上)を見ると、その大きさが分かります。
当時は、京都・堺に次ぐ繁栄を見せていたと説明されていました。(本当かな?)
その通りには、伝馬町や御薗町、鍛冶屋町などの町がありました。
それ以前は、岩倉の織田氏と清洲の織田氏が、尾張の覇権を巡って争いました。そこで。清洲が勝利したのです。この話はまた後日・・・・
織田信長が那古野城から清洲城へ移り住み、城下町を作り上げました。
その清洲城から桶狭間の戦いに出陣したり、家康と同盟を結んだり、本能寺の変の後に清洲会議が開かれたりと、歴史の舞台となりました。
しかし、弱点があったのです。
水攻めに弱いのです。
五条川を下流でせき止めれば、一体は水浸しです。あの東海豪雨の時の浸水地域を思い浮かべると、家康の危惧が当たっていたことがわかります。
そこで、1609年には、徳川家康によって清須から名古屋へのまるごと集団移転が指示されました。いわゆる清洲越し。都市の集団移転は前代未聞の発想です。
直線距離にして7キロメートル弱。(写真中)
名古屋のウィメンズマラソンで、ちょうど名城公園の東側が上りになっています。いわゆる名古屋台地の北辺です。南は金山駅から南に急に下ります。そこが台地の南端になるのです。イメージできますか?
その時に、清洲城はもとより、五条川に架かる橋の資材までが丸ごと使われました。
伝馬町や御薗町、鍛冶屋町など、町ぐるみで引っ越し、町名がそのまま使われました。寺社も丸ごと引っ越しです。
名古屋城の西北隅櫓は、戦災で唯一残った櫓ですが、清須城天守の資材を転用して作られました。そのため、別名「清須櫓」と呼ばれています。
そうしてつくった名古屋の街。家康の発想のスケールの大きさには驚かされます。
では、家康の発想とは?
次回に続きます。